純米酒から作る純米酢
酢は体にいいから、というのが祖母の口癖だった。
体が軟らかくなると信じて、鼻をつまんで飲んだこともある。
そのかいがあったかどうか忘れたが、刺激臭にむせて咳き込むわ、まずいわでひどい目にあった。
戦後生まれの哀しさで、長いこと酢の本当の味を知らなかった。
戦後の酢は史上最悪だったらしい。
氷酢酸を水で薄めて、様々な添加物で味と色をつけただけの合成酢。
これが、使い手の声が上がるまで、20年以上もまかり通っていた。
今も業務用には生き残っている。
昔から酢の効力はよく知られていた。
大腸菌、チフス菌など恐い菌も10分で死滅させる強い殺菌力で、有害菌を片っ端から退治してくれる。
おかげで、「生き腐れ」といわれる鯖のすしも安心して食べられる。
そのうえ血液の流れをよくして、動脈硬化や高血圧の予防に力を発揮することもわかってきた。
食卓の良薬だからこそ、心して本物の酢を選びたい。
酢は酒と共に、人間が最初に造りだした調味料だといわれている。
条件にかなえば、酒は自然に酢になる。
ワインの国にはワインビネガーがあり、ビールの国には麦芽ビネガーがある。清酒の国は米酢である。
平安時代の宮中儀礼規定を記した「延喜式」(927年)にある造酒司の造酢法によると、当時も米と麹で造る米酢が主流だったことがわかる。
本来、米酢は米の酒から造る。
寒に甘い酒を造り、これに酢酸菌をつけて発酵熟成させる。
微生物のすることだから、黄金色のまろやかな米酢になるまでに1年以上かかる。
マーケットに「米酢」が並ぶようになったが、ほとんどが本来の米酢とは別物だ。
日本農林規格(JAS)では、酢1に40g以上の米を使っていれば「米酢」と表示できる。
だが米だけで1ℓの酢を造るには、最低12Kgの米が必要だという。
米を原料に造った酢が3分の1だけ入っていれば、醸造用アルコールの酢も「米酢」に化けるのである。
しかもその「米酢」の多くは、たった数日間で量産する高酸度酢。
絶滅寸前だった、昔ながらの米酢の味を知ったときは、目から鱗が落ちた。
丹後、宮津の飯尾醸造の純米酢である。
「うちでは1ℓの酢を造るのに、20kgの米を使います」
それも農薬を使わずに栽培したコシヒカリの新米で、純米酒を造ってから、酢にしている。
「明治28年創業当時、初代が日本一の酢を造りたいと、『富士』と名づけました」
丹精込めて造った純米酒が、1年かかってまろやかな酢になる
飯尾醸造の飯尾輝之助さんが、無農薬の米でなければ、と痛切に思ったのは、昭和39年のことだった。
「毒薬を田んほへ撒いて、赤い旗を立てて、1週間は田んほへ入れない時代でした。田螺もどじょうも皆死んでしまった。
そんな田の米を食べたら、人間生きていけんのではないか。こんなもので米酢を造っても申し訳なくて売れん。毒薬を入れんと米を作ってもらえんか」という頼みに、知り合いの5軒の農家が応えてくれた。
「偏屈もん」と嗤われたが、劇薬を撒かれては酢が造れなくなると必死だった。
無農楽米の栽培は始まったものの、安物合成時代で、米酢を出荷できたのは昭和45年になってからだった。
今は集落全戸が農薬を使わずに米を作る。そんな里が何か所かできた。
はるか眼下に、銀色に光る宮津の海が見える。海抜400m、宮津の屋根とも呼ばれる上世屋地区の谷は、見渡すかぎりの黄金色だ。
ゆるやかな曲線を描く畔に区切られて、段々に重なる田という田に、稲穂が頭を垂れて揺れている。
健やかな稲の豊穣の風景である。
山間の寒冷な水で育ったコシヒカリの新米は、一粒一粒が象牙色に透き通っている。
これほど旨い米に、めったに巡りあわない。
1月から3月なかばまで、酒の寒仕込みに杜氏がやって来る。
仕込んで2日目には発酵が始まり、じゃばじゃぱと音を立てる。
麹菌が米を餌に糖分やアミノ酸を生み出し酵母が糖を食ってアルコールに変える。
目に見えない大群の営みの音だ。
騒ぎが静まる8日目には、飲みごろのどぶろくとなり、約20日後に甘い雑味の多い酒になる。
飲んでおいしい酒ではないが、この雑味が酢には大切で、味に深みが加わる。
約1か月かかって純米酒ができると、酢醸造蔵へ運んで仕込みにかかる。
酒、水、種酢、各同量をタンクに仕込み、表面に酢酸菌の膜をそっと浮かべてやる
「酢の発酵には温度が足らんといかん。風呂の湯くらいが適温です。昔は熱い湯を担いで、1日に1斗桶600杯は運んだ。何杯入れたか忘れんように、数え歌を歌たもんです」
80歳を過ぎたという輝之助さんは、かくしゃくたるものだ。
酢酸発酵が始まると、巨大なタンクの中で、ゆっくりと対流する。
冬は約90日、夏は約140日。酢酸菌が酒を食い尽くすと酢になる。
さらに8か月から1年間、朝夕攪拌しながら熟成させる。
人間の都合にではなく、微生物の営みに合わせた静置発酵法で、様々な有機酸や旨味成分の天然アミノ酸が、ずば抜けて多い純米酢になる。
息子の毅さんが4代目を継いだとき、輝之助さんはこう申し送った。
「米酢はうちの生命。偏屈といわれてもこれで通してきた。
おまえも押し通さんならん」
代々の偏屈に声援を送りたい。
自然醸造の米酢(壺酢)
古壺に米と麹、水を入れて、ひだまりに半年も置くと、おのずと酢になる。
何も足さない。太陽光と、壷、土、空気中に棲む微生物が、機嫌よく働いて造る自然醸造の米酔は、歳を経るごとに熟して奥行を深めまろみを増す。
4月の声とともに始まる春仕込み古壷の中で発酵熟成する琥珀の液体
見かけはまるでコーヒーだ。
光にかざしてやっと透き通った琥珀色とわかる。
黒酢と呼ばれる壷酢は色も風味も濃く、独特の香りがある。
薄めたくなるほどこくのある酸っぱさだけれど、まろやかで甘味があり、あと味はさっぱりとして涼しい。
酢は酷とも書く。
昔酒だったと書くように、米からいったん酒を造り、さらに酢酸菌を加えて発酵させて酢を遣る。
普通は使う菌も発酵温度も人がコントロールしている。
壺酢というと、そのすべてを陽だまりに置いたひとつ壷の中で、自然まかせでやってしまう。
古壺そのものが離工場なのである。
壺酢造りは、 およそ200年前福山の商人竹之下松兵前が、薩摩半島の西岸の日置地方で造られていたのを見覚えて帰り、始めたといわれている。
当時福山には米酢はなく、ダイダイ酢を使っていたそうだ。
錦江湾の最奥に位置する福山は、三方を丘陵に囲まれ、前は入江。
年間平均気温18.7℃。
冬もめったに霜の降りない温暖の地だ。
酢造りには欠かせない水も、薩摩藩時代から藩随一と折紙つき。
酢造りの必須条件が整っていた。
醸造酢造りが中国から、日本へ伝わったのは、4~5世紀の頃とされている。
大和朝廷の時代には、酢は塩や酒、ひしおとともに、調味料の主役として使われていた。
大和朝廷は造酒司をおき、酒や酢の類を醸造させている。
平安時代の宮中の儀礼規定についてかかれた『延喜式』(927年)によると、当時も米とよねのもやし(米麹)で米酢を造っている
「酢は体にいい」と昔からいわれているように、調味料ばかりでなく薬としても使われてきた。
壺酢を食べると血液がさらさらと流れて循環が良くなる。
2割がた血流が早くなることが実証されている。
血糖値を下げ悪玉コレステロールを減らしおまけに中性脂肪を分解してくれる。
もちろん酢と名が付けば何でも良いというわけにはいかない。
添加物で味を付けた合成酢の類など、もってのほかである。
壺酢に含まれる旨味の成分アミノ酸は普通の酢の約4~6倍。
乳酸、リンゴ酸など酢酸以外の酸も含まれ酸っぱさも複雑だ。
米と麹と水を入れておくと酢にしてしまう摩訶不思議な壺が、薄煙たなびく桜島を見晴らす壷畑に、何万とうずくまっている。
黒褐色の変哲もない古壷には、長年培われてきた種も仕掛けもある。
種は壷に棲みついている微生物。
仕掛けは、惜しみなく手をかける環境作りである。
最終的には自然の手に委ねられる壷酢は、普通の酢とは一線を画す野太い逸品に仕上がる。
細かいひび割れや穴に、微生物がたくさん棲んでいる。古い壷ほど、いい酢ができる
「生きものですから、毎日みてやらないと。できのいいのも、悪いのもあります。手当ては早い方がいい」
ものをいわないから、察するしかない。
壷酢造り最長老の竹之下益雄さんは、 現役時代、毎日壷を覗き、できのよくない壷の蓋の上に、目印の小石を載せてまわったという
壷に耳をあてて、ぴちびちという発酵の音を聞き、中をうかがう。
顔色と近明感をみる。舐めて味を知り、匂いの微妙な変化も嗅ぎわける。
「壺の中にはいい菌も、悪い菌もいます。それが格闘して、いい菌が勝ち残っていい酢を造るんです」
悪い菌に負けそうになっているのには、即座に、たっぷりいい酢を足して応援してやらなければならない。
壺の蓋を取って、覗き込んでみた。
甘い匂い、くらくらする酒の香、つんとくる酸っぱさ。
のったりと流れるもの、分厚い白い膜におおわれたもの、ぼっかりと丸い空を映すもの。
発酵の進み具合によって、その匂いも液面の表情も、ひとつとして同じものはない。
素人目には、酢酸膜も奇妙な模様にしか見えないが、熟練の目には、菌の戦況が読めるのだろう。
仕込みは適温が保てる春と秋の2回。壷に蒸米と米麹、湧き水を仕込むと、まず麹菌が働いて米のでんぶん質を糖に分解する。
次に甘党の酵母が糖をアルコールにかえる。
そこへ酒飲みの酢酸菌が登場し、アルコールを食い尽くして酢になる。
アマン壷と呼ばれる壷の大きさは生産量が増えた今も、昔ながらの3斗入り。壷はこれ以上大きくても、小さすぎてもいけない。
器を大きくせず、壷の数を増やしたのにはわけがある。
液の量が多いと発酵に温度が足りず、少ないと高温になりすぎる。
先人が残してくれた壷は、見事に自然の理にかなった大きさなのだ。
壷中のいい菌たちには、機嫌よく働いてもらわなくてはならない。
熟成が始まると、何万個という壷の蓋を開け、そっと竹の棒でかきまぜて酢酸菌に空気を送ってやる。
いっさい無添加の壷酢に、たったひとつ添加物があるとしたら、それは作る人の丹精である。
空と海はまだ薄明かり、夕闇の降りてきた壷畑に、降り積もった時をのせて障る壷が、おびただしい数の石仏にも見える。
動くものひとつない静止した風景の中で、天文学的な数のミクロの生命がうごめき、酢造りをしているのかと思うと、
1000年以上も前からおいしいものを作り続けてくれた、甘党や左党のかび菌たちに、手を合わせたくなる。
秋に仕込んだリンゴワインを70日,更に1年寝かせたりんご酢
秋に仕込んだアップル、ワインを70日間かけてじっくり酢にし、1年寝かせて円熱させる。
まろやかなりんこ酢に蜂蜜を加えて、アメリカ流長寿法バーモント、ドリンクをお試しあれ。
完熟のもぎたてりんごで醸した酒から生じる芳醇な酸っぱさ
草臥れた顔を見かねたのだろう、酢を毎日お飲みなさいとすすめられたことがある。
酢になる前なら喜んでいただくが、酢は料理で楽しむのが筋というもの、飲みものじゃない。
ところが、このりんご酢にはあっさりシャッポをぬいでしまった。
同量の蜂蜜と混ぜて、好みの水で割り、氷を浮かべるとさわやかな飲みものになる。
からだがよろこぶのか、結構いける。
このりんご酢と蜂蜜の取り合わせは、アメリカ東部最北にあるアメリカの長寿州バーモント伝統の流儀だそうだ。
慢性疲労、高血圧、心臓障害の原因となるカリウム不足をりんご酢と蜂蜜の豊富なミネラルが補い、からだを健やかに保つのだという。
D.C.ジャービズという無名の町医者が書いた『バーモントの民間療法』という本が、記録的ロングセラーになったことで、片田舎のバーモント·ドリンクは、一躍押しも押されもせぬ長寿の飲みものとして知られるようになる。
日本にも30年前に紹介されている。
「いいりんごがあるのだから造ったらと研究者にすすめられて、5年前にりんご酢を試作しました。
5年かかって出荷にこきつけたものの、売れるまでに3年かかりました」
福島県の阿武隈川のほとりの須賀無市で酢屋を営む太田実さんは、地元産のりんごでワインを醸し、得難
い本物を造っている。
「食酢の日本農林規格」によると食酢1ℓ中に、果汁が300g以上含まれていれば、果実酢と呼べることになっている。
つまり3割果汁が入っていればいい。
国産の大量生産果実酢の多くは、安価で手間のいらない醸造用アルコールを主原料に、半分にも満たない
果汁を加えて造られている。
口を酸っぱくしていうが、本物のりんご酢とは、りんご以外の原料を一切使わず、りんごだけを発酵させてワインを造り、さらにこれを酢酸発酵させて酢にしなければならない。
「当たり前に仕込んでいますが、1ℓのりんご酢を造るのに、1.2Kgのりんごを使います」
何も足さない本醸造だから、酢の香りと味はひとえに原料のよさにかかっている。
減農薬栽培に取り組む志のあるりんご農家から、木で完熟した、もぎたてが届く季節に、仕込みが始まる。
酢を与えて栽培した減農薬りんごが、本物の果実酢になる
阿武隈川にほど近い果樹園のりんご樹に、枝がしなうほど見事に赤い実がついている。
樹齢50年の晴れ姿に、風格と色気がただよう。
りんご農家の有我彰夫さんは22年前から、酢を使うことで徐々に農薬を減らしてきた。
りんごの葉は厚く硬くなり、病気に強くなって、味も実りもよくなるよう木の生理が活性化するのだという。
そうはいっても農薬のように強力速効性はない。
「家のもんにも、消毒せんと自い眼で見られるだけどね」
病害虫の時期に、農薬をかけないでいるのは、たやすくはない。
酢の原料は、木で完熟したりんごである。時季が早いと酢に青臭さが残るし、遅れると実が落ちてしまう。
収穫は10月上旬のわずか1週間に集中する。短い旬を追いかけてりんご農家も酢屋もてんてこまいだ。
もぎたてりんごは、まるごとつぶされ4tタンクに仕込まれる。
ワイン酵母を加えると、すぐにアルコール発酵が始まり甘い香りが漂う。
りんごをワインにかえるのは、甘党の微生物、酵母である。
好物のりんご果汁のなかで、糖分を食って猛スピードで増殖する。
ぶくぶくと泡がたつこの状態を、発酵と呼ぶ。
糖分は炭酸ガスとアルコールに分解され、炭酸ガスは泡となって空気中に出ていき、タンクには芳醇なワインが残る。
これを酢酸発酵室に移し、酢酸菌を浮かべてやると、りんご酒を楽しむかのようにぐずぐずと、70日もかかって酢になる。
さらにおよそ1年、空気とエールを送りながら熟成する。
今年仕込んだりんご酢が、晴れて世に出るのはへたすると再来年である。
こんなりんご酢を造るのはよほどの頑固もんにちがいない。
天保年間から続く太田酢店は、米の統制で一時酢造りをやめた。
戦後になって先代は江戸·明治の仕込み帳をもとに、昔の玄米酢の再現にとりかかる。
酢屋が次々廃業していくご時世に、資産をつぎ込んで失敗を重ね、10年かかって造った本物は安い合成酢の前に勝ち目はなかった
「父は研究が好きで、優秀な職人でしたが、売るのはからきしだめな人でした。当時は酢では食えなかった。虚仮の一念ってやつです」
酢で食えない酢屋の一念と、りんご農家の一途が醸したりんご酢は、10年寝かすと上等のブランデーの香りに円熟するという。
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